東京大学TOPIAのブログ

2023年3月〜。LGBTQ+支援団体である東京大学TOPIAのメンバーが、自由に意見を表明する場です。

「少子化対策」とはなにものか?

※執筆担当者はKです。必ずしもTOPIA全体の考えを表すものではありません。

 

21世紀最初の年である2001年に生まれた私は、小学校・中学校のころ、現代日本が抱えるいちばん大きな社会問題は「少子高齢化」である——そう学んだ。少子高齢化は、現代日本で働く人の確保を難しくしてしまう。年金や医療費など社会保障の負担を若者に押し付けてしまう……など。大人数の高齢者が一人の若者の上に乗っかって、若者が重そうにしているイラストが何度も何度も使われた。

私は鋭かったので、ほんまか? と思っていた。

 

第一、少子高齢化が問題だと言われて、子どもである私はどうすればええんか?

 

それは、「子どもを作れ」というメッセージではないか?

 

恐ろしいことだと思っていた。当時から、そんなメッセージを受け取る義務もなければ、そんなことに加担するつもりもさらさらないと思っていた。少子高齢化は確かに問題だろう、しかし、問題にするなら、それは「労働者不足」や「社会保障の不安定化」といった言葉であるべきであり、それらをまとめるのが「少子高齢化」という言葉なら、それは国策の不徹底や構造的問題から、家庭や個人のセクシュアリティの「問題」にされる。

 

決まって併せて取り上げられるのは、「未婚化」「晩婚化」の「問題」であった。私の家庭は離婚している人ばかりだった(三親等まで遡っても、離婚していないカップルが1組しかいない)ので、なんでそこまで結婚に対する尊大な信頼を寄せるのかそもそもよくわからなかっただけでなく、「結婚」しない/をやめるという選択が悪者にされているのは端的に腹立たしかった。私の両親も早くに離婚しているが、それでも両親はずっと私を共同で育ててくれたし、両親同士うまくやっているし、私を中心にした家族形態をうまく作るために工夫してくれたのだということがよくわかる。私は小学校高学年の時に、坂元裕二脚本の『最高の離婚』というドラマ(2013年1〜3月)に魅せられた。タイトルからして、離婚という言葉にくっついたネガティブなイメージを取り払うユーモアがある。『お片付け上手ママ』みたいなタイトルの本を二冊買っちゃうのを光生が結夏に指摘するところも、すごく好きだった。家族は国家によって管理されるべきものではない。結婚ばかりがいいことではない。結婚なんて、その中身を見たらみんな無理してることが多いんだから。矛盾だらけだ。

 

菊地夏野は、ネオリベラリズム新自由主義)の日本における進展を、1985年男女雇用機会均等法、1999年男女男女共同参画社会基本法、2015年女性活躍推進法という概ね15年ごとに施行された法とそれらに対するフェミニストの批判をたどりながら、フェミニズムネオリベ的な社会・政治の枠組みは協働してきたのではないか、という疑問を私たちに考えさせる。

 

「現在の日本社会では『少子化』という認識によってさまざまな政治的圧力の発動が許容されている。その中でも懸念されるのは女性への影響である。人口の量と質の管理をしようとするときに標的にされるのは女性の身体である」(『日本のポストフェミニズム』p.62)

 

菊地が鋭く指摘するところを読み解いていくと、私たちがいかに新自由主義的な価値観のもとで思考を不自由にしているかということを突きつけられる感があって、私は頭を悩ませてしまう。差別や抑圧は確かに存在する。私はノンバイナリーであるが、AMAB(生まれた時に割り当てられた性別が男性)であって、長く男性として自分のことを認識してきた。その頃も、男性として将来女性と結婚し、子どもを作って……といったことが想定されることが気持ち悪くてたまらなかったし、それが「少子高齢化」言説への反発や、安倍政権に対する根本的な不信感などと関わっていることはなんとなくわかっていた。

 

でも、どう考えていいのかわからなかった。

今もわからない。

 

それでも、フェミニズムは、凝り固まった私たちの頭をほぐすための道具をたくさん用意している。国家や社会、企業が求める「家庭のカタチ」に合うような主体となることを、私たちは教育や社会の空気、メディアの煽動を通じて学び取って、当たり前のものとしてしまっている。本当にそれでいいのか、なんか気持ち悪い、と感じる私のような人が、考え始めるための材料が、そこらじゅうにあることを認識し始めた。

 

出たばかりの本であるが、アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』も、そのようなフェミニスト的視野を広げてくれるのに役立った。アセクシュアル・アロマンティックのスペクトラムに自分が属するかどうかということは、私にとっては今のところ重要ではない。それよりも、ACEを抑圧する社会の構造において、どのような類の生き方がなかったことにされているのかを認識することが、自分ごととしてとても関心がある。

 

やっぱりそれは、子ども時代の私自身に突き返される。「少子高齢化」ときいて、私が受け取ったメッセージは次のようになる:

 

ほら、お前も将来結婚して、子どもを作って、養うために仕事しなきゃならないんだぞ、日本では勤労や納税の義務も決められてっからな、だから大学行くかどうかは別にどうでもいいけど、結婚と就職だけはすっぽかすんじゃないぞ。

 

はあ? そんなのに応えてたまるか、ぼけ。

 

私は異性愛者でもシスジェンダーでもないし、アロセクシュアル(アセクシュアルの対義語)やアロロマンティック(アロマンティックの対義語)でもない。そう考えれば非常にマイノリティ属性をたくさん抱えているかもしれない。しかし、私は至って普通の人間である。私をマイノリティにしているのは社会である。「少子高齢化」の話題を聞いてムカつくのは、私がそういう人間だからではなく、社会が「少子高齢化」という矛盾を抱えた馬鹿げた理想を掲げているからである。

 

私がマジョリティ/マイノリティの対立で話をしたくないのは、ここに理由がある。だってそれは、問題が社会や政治にあるということを、隠蔽してしまう感じがあるから。

 

もしこれを読んでいる私よりずっと若い人たちがいたら、そっと言っておきたい。とりあえず、言葉や考え方を疑って。みんなが従っているように見えるものは、実際それに従っている中で、みんな大体矛盾や困難に直面して悩んでいる。その悩みは、あなたたちが「うまくやれない」ことが原因な場合もそりゃあるだろうけど、そもそも「こうあらねばならない」が間違ってることの方が、断然多いのだ。

 

そして、その「こうあらねばならない」は、昔よりも格段に巧妙に、複雑に私たちの社会の隅々まで絡まり合って捻れ込んでいる。差別や抑圧という透明人間の触手は、バイト先や学校、電車や国会議事堂etc.の窓からすんなりと入って、私たち全員の足元を掴んでいるのだ。

 

反抗しにくいものにこそ反抗しよう。