東京大学TOPIAのブログ

2023年3月〜。LGBTQ+支援団体である東京大学TOPIAのメンバーが、自由に意見を表明する場です。

「少子化対策」とはなにものか?

※執筆担当者はKです。必ずしもTOPIA全体の考えを表すものではありません。

 

21世紀最初の年である2001年に生まれた私は、小学校・中学校のころ、現代日本が抱えるいちばん大きな社会問題は「少子高齢化」である——そう学んだ。少子高齢化は、現代日本で働く人の確保を難しくしてしまう。年金や医療費など社会保障の負担を若者に押し付けてしまう……など。大人数の高齢者が一人の若者の上に乗っかって、若者が重そうにしているイラストが何度も何度も使われた。

私は鋭かったので、ほんまか? と思っていた。

 

第一、少子高齢化が問題だと言われて、子どもである私はどうすればええんか?

 

それは、「子どもを作れ」というメッセージではないか?

 

恐ろしいことだと思っていた。当時から、そんなメッセージを受け取る義務もなければ、そんなことに加担するつもりもさらさらないと思っていた。少子高齢化は確かに問題だろう、しかし、問題にするなら、それは「労働者不足」や「社会保障の不安定化」といった言葉であるべきであり、それらをまとめるのが「少子高齢化」という言葉なら、それは国策の不徹底や構造的問題から、家庭や個人のセクシュアリティの「問題」にされる。

 

決まって併せて取り上げられるのは、「未婚化」「晩婚化」の「問題」であった。私の家庭は離婚している人ばかりだった(三親等まで遡っても、離婚していないカップルが1組しかいない)ので、なんでそこまで結婚に対する尊大な信頼を寄せるのかそもそもよくわからなかっただけでなく、「結婚」しない/をやめるという選択が悪者にされているのは端的に腹立たしかった。私の両親も早くに離婚しているが、それでも両親はずっと私を共同で育ててくれたし、両親同士うまくやっているし、私を中心にした家族形態をうまく作るために工夫してくれたのだということがよくわかる。私は小学校高学年の時に、坂元裕二脚本の『最高の離婚』というドラマ(2013年1〜3月)に魅せられた。タイトルからして、離婚という言葉にくっついたネガティブなイメージを取り払うユーモアがある。『お片付け上手ママ』みたいなタイトルの本を二冊買っちゃうのを光生が結夏に指摘するところも、すごく好きだった。家族は国家によって管理されるべきものではない。結婚ばかりがいいことではない。結婚なんて、その中身を見たらみんな無理してることが多いんだから。矛盾だらけだ。

 

菊地夏野は、ネオリベラリズム新自由主義)の日本における進展を、1985年男女雇用機会均等法、1999年男女男女共同参画社会基本法、2015年女性活躍推進法という概ね15年ごとに施行された法とそれらに対するフェミニストの批判をたどりながら、フェミニズムネオリベ的な社会・政治の枠組みは協働してきたのではないか、という疑問を私たちに考えさせる。

 

「現在の日本社会では『少子化』という認識によってさまざまな政治的圧力の発動が許容されている。その中でも懸念されるのは女性への影響である。人口の量と質の管理をしようとするときに標的にされるのは女性の身体である」(『日本のポストフェミニズム』p.62)

 

菊地が鋭く指摘するところを読み解いていくと、私たちがいかに新自由主義的な価値観のもとで思考を不自由にしているかということを突きつけられる感があって、私は頭を悩ませてしまう。差別や抑圧は確かに存在する。私はノンバイナリーであるが、AMAB(生まれた時に割り当てられた性別が男性)であって、長く男性として自分のことを認識してきた。その頃も、男性として将来女性と結婚し、子どもを作って……といったことが想定されることが気持ち悪くてたまらなかったし、それが「少子高齢化」言説への反発や、安倍政権に対する根本的な不信感などと関わっていることはなんとなくわかっていた。

 

でも、どう考えていいのかわからなかった。

今もわからない。

 

それでも、フェミニズムは、凝り固まった私たちの頭をほぐすための道具をたくさん用意している。国家や社会、企業が求める「家庭のカタチ」に合うような主体となることを、私たちは教育や社会の空気、メディアの煽動を通じて学び取って、当たり前のものとしてしまっている。本当にそれでいいのか、なんか気持ち悪い、と感じる私のような人が、考え始めるための材料が、そこらじゅうにあることを認識し始めた。

 

出たばかりの本であるが、アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』も、そのようなフェミニスト的視野を広げてくれるのに役立った。アセクシュアル・アロマンティックのスペクトラムに自分が属するかどうかということは、私にとっては今のところ重要ではない。それよりも、ACEを抑圧する社会の構造において、どのような類の生き方がなかったことにされているのかを認識することが、自分ごととしてとても関心がある。

 

やっぱりそれは、子ども時代の私自身に突き返される。「少子高齢化」ときいて、私が受け取ったメッセージは次のようになる:

 

ほら、お前も将来結婚して、子どもを作って、養うために仕事しなきゃならないんだぞ、日本では勤労や納税の義務も決められてっからな、だから大学行くかどうかは別にどうでもいいけど、結婚と就職だけはすっぽかすんじゃないぞ。

 

はあ? そんなのに応えてたまるか、ぼけ。

 

私は異性愛者でもシスジェンダーでもないし、アロセクシュアル(アセクシュアルの対義語)やアロロマンティック(アロマンティックの対義語)でもない。そう考えれば非常にマイノリティ属性をたくさん抱えているかもしれない。しかし、私は至って普通の人間である。私をマイノリティにしているのは社会である。「少子高齢化」の話題を聞いてムカつくのは、私がそういう人間だからではなく、社会が「少子高齢化」という矛盾を抱えた馬鹿げた理想を掲げているからである。

 

私がマジョリティ/マイノリティの対立で話をしたくないのは、ここに理由がある。だってそれは、問題が社会や政治にあるということを、隠蔽してしまう感じがあるから。

 

もしこれを読んでいる私よりずっと若い人たちがいたら、そっと言っておきたい。とりあえず、言葉や考え方を疑って。みんなが従っているように見えるものは、実際それに従っている中で、みんな大体矛盾や困難に直面して悩んでいる。その悩みは、あなたたちが「うまくやれない」ことが原因な場合もそりゃあるだろうけど、そもそも「こうあらねばならない」が間違ってることの方が、断然多いのだ。

 

そして、その「こうあらねばならない」は、昔よりも格段に巧妙に、複雑に私たちの社会の隅々まで絡まり合って捻れ込んでいる。差別や抑圧という透明人間の触手は、バイト先や学校、電車や国会議事堂etc.の窓からすんなりと入って、私たち全員の足元を掴んでいるのだ。

 

反抗しにくいものにこそ反抗しよう。

 

0605入管法改悪の強行採決に反対する大集会スピーチ

 

この記事は6/5(月)に国会正門前で行われた「#入管法改悪の強行採決に反対する大集会」で、私たちTOPIAの一メンバーがゲストスピーカーとして登壇した際のスピーチ原稿です。

このブログを書いている段階では、まだ強行採決はされていません。しかし、いくら私たちがFAXを送り電話をしデモをして反対の声を上げようと、おそらく強行採決かその他のあまり望ましくない結果となるかもしれません。それでも、私たちは声を上げることをやめないし、FAXや電話もやめません強行採決されたらデモが終わるなんて思っていたら大間違いです。これは人の命がかかった、私たち日本社会の問題です。これに声をあげなくては日本社会がさらなる崩壊の一途をたどります。だから、これからも共にたたかいましょう

 

それから、昨日前に立って、LGBTQIA+コミュニティの一員としてお話をさせていただいて、案の定SNS上などで中傷が見られました。しかしながら、それ以上に、話してくれてよかった、セクシズムについて触れてくれる人がいなかったのでとても嬉しかった、フラッグで連帯の意を感じられた、などのお声をいただきました。これからも邁進いたします。

 

(おしらせ)

本日6/6(火)10:00-14:00には「入管法改悪反対アクション国会前シットイン」があります。強行採決の可能性も大きい、非常に重要な回です。時間に余裕がある方は参加してみてください。

 

(以下、本文)

東京大学を中心にLGBTQIA+支援の活動をしているTOPIAというサークルの者です。

先週木曜のシットインでは、道路脇読書会と題して平野雄吾さんによる『ルポ入管』を読む会を行い、21人の参加がありました。

 

私たちも、この入管法改悪案に反対です。

 

この日本には、人種差別があります。

 

それから、国籍差別があります。

 

民族差別があります。

 

私たちはすでに一緒に生きているにも関わらず。

 

女性や性的マイノリティに対する差別、性差別もあります。

今私が背中に羽織っているのは、プログレスプライドフラッグという名前の旗で、LGBTQIA+コミュニティの人々の解放を目指すメッセージがあります。

当然、ピンク、水色、白の3色が示すトランスジェンダーも含まれるし、黒、茶の2色が示す一つである人種・国籍・民族的マイノリティも含まれます。

 

私はこのフラッグを今日持参するかどうかとても迷いました。私たちは第一にこの入管法に対して反対するために集まっているのであり、別イシューの活動を相乗りさせるようなことがあっては敬意に欠けると思ったからです。

 

しかし、日本にいる女性や性的マイノリティの外国人は、レイシズムだけでなくセクシズムも経験します。

ひどい場合には暴力を受けます。

入管でトランスジェンダー女性への性暴力があることは、先週の課題本『ルポ入管』にも書かれている通りです。

 

ヘイト言説を浴びせられるリスクの高い集団に、外国人、移民、難民の人がいます。

トランスを含むLGBTQIA+コミュニティの人々もそうです。

であるなら、その両方に属する場合、どうなるでしょうか。

 

だから、このフラッグを通じて、ここにいる人々はレイシズムとセクシズムの協働にも反対するのだということを可視化しようと思いました。

 

差別は暴力と共謀します。

暴力は差別と協力します。

 

ネット空間は排外言説が溢れています。

支援者含め入管問題に携わる全ての人に敬意を持たない議員がいます。

この国は、私たちの仲間に対してつねに暴力を振るいつづけています。

 

私たちは共に生きています。

 

しかし、それだけではありません。日本人は外国人を構造的に利用しています。搾取しています。日本人の働きたがらない職種で外国人に働いてもらいながら、支援や援助を与えないだけでなく、最低限の人間としての尊厳も認められない。これが差別です。

 

外国人を問題を持つ存在にしないでください。

「これから犯罪をするに違いない」存在にしないでください。

治安悪化の原因にしないでください。

身体を拘束されて良い存在にしないでください。

働いてはいけない存在にしないでください。

でも安価な労働者としてだけ扱うのもやめろ!

 

人間として扱え!

 

1人の人間に対して、決してしてはならない対応を規定する、差別と暴力の源泉である入管法改悪案を、絶対に私たちは許しません。

 

明日からも権力の中枢たるここ国会前でシットインがあります。反対したくてもさまざまな理由で来られない人がいます。来られる人は、お会いしてともに戦いましょう。そうでない人も、ともに声をあげましょう。よろしくお願いします。

(本文終わり)

 

本登壇を紹介してくださったうちの一部を紹介いたします。

 

 

 

 

 

(繰り返し)本日6/6(火)10:00-14:00には「入管法改悪反対アクション国会前シットイン」があります。強行採決の可能性も大きい、非常に重要な回です。時間に余裕がある方は参加してみてください。

 

 

私たちは入管法改悪に反対します。

0601道路脇読書会@入管法改悪反対シットイン レポ

 

はじめに:6月5日19時〜20時半に行われる国会前大集会に、みんなで参加しましょう!!https://twitter.com/freeushiku/status/1664282170083672065?s=20

 

入管法改悪反対デモが、各地で行われている。

LGBTQIA+支援サークルである私たち東京大学TOPIAは、メンバーが5月27日に川崎で行われたデモ、そして今週火曜日(5/30)に参院会館前で行われたシットインに参加することを通じて、これは学生、若者たち、私たちの仲間たちにも参加してともに活動してほしいと決意し、東大フェミニズム研究会と協力のうえ火曜夕方から急ピッチでの準備をすすめ、人を集めた。この記事では、①どのように人を集めるのが効果的だったか、②「道路脇読書会」について、③「シットイン」という場について、について書いておこうと思う。

 

もしこの記事を通じて気になった方がいらっしゃったら、「移住連」や「FREE USHIKU」などで検索して、6月21日まである参議院会期でどのような審議が行われるか注視しつつ、今後の活動にも参加していただければと思います。

 

⓪そもそもの経緯

現在日本で横行している入管行政は、外国人差別・人種差別を温存し助長する最悪の体制です。かつてはある程度柔軟かつ弾力的に運用されていたものが、政局の変化やオリンピック開催決定に伴う急激なジェントリフィケーションなどに伴い厳格化の様相を強め、無期限収容が常態化しています。

後に紹介するように、今回の読書会で課題本として採用した『ルポ入管』では、こうした状況が詳しく紹介されています。

 

私たち東京大学TOPIAは、通常キャンパスにおけるLGBTQIA+の権利獲得を求める活動を行っていますが、読書会などを通じて、インターセクショナル(交差複合的)な差別のありようについても根本的(ラディカル)な意識変革が必要であると理解し、日々語り合っています。特に、国籍や民族、障害の有無に関連する差別を受けている人はトランスジェンダーを含む性的マイノリティの中にも多数おり、時に性的マイノリティであることとそれらの差別が複合した形で現れることがあります。例えば、今年5月に発行した初のZINE「uTOPIA」には、この点を踏まえた記事を掲載してあります。

 

TOPIAのメンバーの中には、様々な差別のイシューに興味を持ち、実際に多分野で活動している人もいます。一つには、LGBTQIA+の差別は決して他の問題と切り離された問題ではなく、構造的暴力と無関心が引き起こす問題として通底しているということ。そしてもう一つには、『トランスジェンダー問題』という本の主張にもあるように、LGBTQIA+の多くは、そもそも労働や社会保障にありつけない二重苦を味わっている中で、労働の運動や人権を求める運動にはコミットしていく必要があるということです。これが、私たちの活動を支えている考え方です。

 

入管法の暴力は、国家による構造的な暴力そのものです。入管職員の考えられないような虐待の実態。無関心と蔑視に貫かれた人権侵害。裁判官や法務委員の事実に基づかない不公正な判断。それらを支えているのは、「国民」の無関心でもあり、その意味で、「国民」は加害者であるとすら言えるかもしれません。

ですから、私たちは動かなくてはならない。それだけのことです。

 

①どのように人を集めたか

まず、人を集めるためには、「自分が集められた」経験が決定的に重要です。

スピーチでもお話ししましたが、今回の読書会の発案者の一人であるTOPIAメンバーは、5月27日に開かれた川崎での入管法改悪反対デモに「集められ」ました。デモの主催者である同年代の学生の方とインスタが繋がっていて、(忙しくてあまり見れておらず…)前日になって初めてデモの存在を知り、熱量に突き動かされて参加しました。

 

川崎は、昔から在日外国人や障害者との共生が行われてきた街です。2010年代中盤の激烈なヘイトスピーチに見舞われた中でも、地道な市民運動が継続されました。今回の川崎デモは、かつてのヘイト街宣がたどった稲毛公園から駅、平和通りを一周するルートと同じルートを採用し、排外主義を共生の声で塗り替えるものでした。私と同じ学生が主催し、400人もの人が集まって共生を訴えている。その光景には強いインパクトがありました。

 

月曜日には、東大フェミニズム研究会によるタテカンがキャンパスに出現しました。「入管法改悪反対 だれもころすな」という文字と、翌日のシットインの情報が書かれた、確実に動員を起こすことを目的としたわかりやすいタテカンで、これを見てTOPIAメンバーもシットインにいくことを決意。

 

火曜朝10時から参院会館前(最寄り:永田町or国会議事堂前)の交差点脇の歩道にて、シットイン活動に実際に参加しました。10時に到着した時にはすでに多くの人がいて、みんな思い思いに本を読んだり、近くの人と話をしたり、政府に対する怒りを一人だろうと滔々と叫び、プラカードを掲げたり、置いたり、飾ったり、時々審議の中で応援すべき内容があれば応援の声をあげたり、批判すべきものがあれば批判したり。特に「国益無くして人権なし」などという鈴木宗男議員の敬意のかけらもない捲し立てるような発言には、シットインの場からも大きく抗議の声が上がりました。

 

火曜の段階では、TOPIAとフェミニズム研究会で数名の参加でありながら、その中で、このシットインという場の重要性を改めて確認しました。実際に生身の人間が座って、そこに存在して、思い思いに行動しつつ、心は一つ入管法改悪反対に向いていて、声を上げる場面では大声を上げる。難民や仮放免の当事者の方や支援者の方や参議院議員がスピーチをされるのを聞いて、実際に国会の中で何が起こっているのか、入管の暴力とはいかなるものか、「仮放免」の状態に置かれている人が、実際は我々と同じように生活をしようとしているだけであるのにも関わらず、不当に劣悪な状況に置かれているのはいかがなものか。そうしたことは、やはり現場に行って、座って、声をあげて、聴くことでよくわかるようになる。

だから、他の学生や若者にもここにきてほしい。そう考えました。

 

そのためにしなくてはならないことは何か。とにかく重要なのは、目的を見失わないことです。今回私たちが何よりも重要だと考えたのは、「より多くの学生を現場に連れてくること、そしてこの問題に対して、一緒に活動してくれる人を一人でも多く確保すること、その一人一人を大切にすること」でした。

これは、どう考えてもSNSでの拡散では不十分だろう。まずは、それぞれの団体の中でしっかりと根強く広報を行い、来てくれる人、一緒に手伝ってくれる人を確保することでした。そのためには、普段からの活動をしっかり立てておくこと、団体内での信頼関係を作っておくこと、団体内でも軽く情報を流すだけではなく、DMなどを活用してかなりダイレクトにアプローチしてみること、こうしたことが重要であると思いました。

キャンパスでは、「タテカン」を作成しました。先ほどもフェミニズム研究会のタテカンの話がありましたが、「タテカン」とは東大駒場キャンパスに残る文化の一つで、90cm×180cmくらいのベニヤ板を立てた看板のことです。新歓の時期のサークル紹介などに使われるほか、政治的な内容やアピールのためにも活用され、東大フェミニズム研究会と東京大学TOPIAは、かねてより継続的にタテカン制作を通じて差別問題への意識掲揚を図ってきました。

 

やはり、インパクトのあるものが必要だということで、結果的にタテカンは6枚用意しました。4枚は、一枚あたり1〜2文字の大きなアピール看板で、黒地に白い文字で「入管法改悪反対」を刻みました。また、残り2枚を駒場東大前駅近くの多くの人が通る場所におき、シットイン活動への参加の仕方を具体的に書き込みました。内容は以下のとおりです:

 

入管法改悪反対!!

明日6/1(木)10時〜14時

参院会館前(永田町、国会議事堂前)シットイン

テスト休み・空きコマを使って集まれ!

緊急企画で道路脇読書会もやるよ

課題本『ルポ入管』(ちくま新書

駒場から27分!(google maps調べ)

 

のちに来場した人に聞いたところ、「駒場から27分」のような具体的な文言が、やはりグッとハードルを下げた、という場合もあったようです。このようなアピール方法は今後も非常に使えるかもしれない、と考えています。

 

また、実際に自分たちで手を動かすことを通じて、意識が掲揚されていくということもあります。例えば、KOSS駒場キャンパスSafer Space)には、裏面に自民党本部の宛先が書かれた葉書の表面に、点繋ぎを通してメッセージが浮かび上がる仕組みになっている作品が置かれており、それを通じて入管法改悪反対への意識を強めた人もいます。「単に線を書くこと」だけかもしれませんが、それがまさに切手さえ貼れば自民党本部へ送ることができる直接的な実践の一部であるという事実に気づいた時、これは強力なアジテーションになります。

こういうことを私たちもしたい。そう思いました。残念ながら時間もなく、できることは限られていましたが、タテカン制作と並行して、当日使用するプラカードの作成ワークショップも開催しました。とはいえ、2時間に満たない時間しか取ることができませんでしたが、読書会の案内を書き込んだプラカードに加え、参加者が重い思いのデザインを採用し、それぞれの個性が現れたものが出来上がりました。当日これらは壁に立てかけ、場所の目印とするとともに、参加者の人気撮影スポットともなりました。

 

そして、やはり重要なのはSNSによる拡散でした。タテカン二種をTwitterで広報し、また読書会を行うことを宣伝することを通じて、学生が主体となってシットインに本気で参加しようとしているということを広く伝えることを企図しました。中には、シットインの活用方法として効果的だ、という声もいただき、非常に嬉しく思いました。

 

②「道路脇読書会」について

さて、今回の私たちの活動で独創的なものがあったとすると、それはこの「道路脇読書会」だったと思います。シットイン活動は長く続いているこの入管法改悪反対の運動を少しでも持続可能なものにし、継続的に反対の声を可視化するために非常に有効な戦略です。そして、こうした問題をあまり知らず、あるいは関心があってもなかなか参加することにハードルを感じる人も多い中で、シットインに参加しながら学べる環境があれば良い。それが第一の出発点です。

 

また、東京大学TOPIAや東大フェミニズム研究会は、普段から読書会を頻繁に行なっています。したがって、本を扱って学ぶ会を開くことによって、人を集める確率を上げることができると考えました。

 

本の選定は非常に悩みました。入管の現場でも性暴力や性差別は存在し、ジェンダーセクシュアリティに関連する内容の本を扱うべきかと当初考えていましたが、入管暴力に反対する現場にイシューのズレたものを持ち込むことはいささか敬意に欠けると考えられる上、そもそも私たちが入管のことについてきちんと知らなくてはならない。一からきちんと学ばなくてはならない。そうしたことを痛感していたため、『ルポ入管』という新書を選定しました。1000円程度で比較的入手しやすいこともあり、読書会の宣伝をしてから2日経っていない中での開催でしたが、6名が持参・購入してきてくれました。

 

当日、読書会には結局21名が参加してくれました。これは、1名でも参加者が増えれば良いと考えていた私たちにとって予想外の多さであり、非常に感激しました。主催者であるTOPIAメンバーが事前に読んできた(水曜夜から急いで3時間で読みました…)箇所の中で、共有したいと思っていたところに付箋をしていたので、そこを音読しつつ、自分たちを取り巻く問題についても議論を深めました。

特に、我々の日本社会が構造的に外国人労働者を必要としているにもかかわらず、外国人を歓待するどころか暴力で対応しているという事実について、参加者の中で深い頷きと気づきが得られました。p.195より引用します。

 

解体、建設の現場に加え、農業や工場、飲食業……。人手不足が続く産業で、非正規滞在者が働き、日本経済の一翼を担う現実は間違いなく存在する。

「法律上の最低賃金しか払えませんが、難民申請者をはじめ非正規滞在者のおかげで仕事が回ります。日本人を雇ったときもありますが、一日で辞める人もいて、あてにできません」。関東地方で一九九〇年代から非正規滞在者を雇う男性農家はこう指摘する。技能実習生など農業に従事できる外国人の在留資格は存在するが、「監理団体などの中間組織にピンハネされます。そんな余裕はありません」と話す。「不法就労」との事実を把握した上で、「入管は、仮放免者は働いてはいけないと言うが、それ自体が問題でしょう。カネが底をついたらどうするか。答えられる入管職員なんていません」と強調した。

 

考えてみると、我々学生の中にも、アルバイトという非正規労働者の身分を経験することを通じて、非正規差別や労働者に対する暴言、ミスジェンダリングやセクハラの暴力を体験した人がいます。「日本人が働きたくない仕事を外国人がしている」というこの構図は、そもそも日本の労働環境の劣悪さを反映したものであると同時に、構造的な人種差別がそのままはっきり反映されたものでもある。その中で、例えば日本国籍の学生はどのように考えるべきなのか。

 

シットインの場での読書会なので、道に沿って横に並んで座る必要があります。20人近くの参加者があったため、主催者は声を張り上げながら読み上げる形式をとり、十分に相互の議論ができる状況ではありませんでした。また、本は十分に用意できておらず、近くの人たちで回して読みつつ、読み上げを注意して聴くという形になりました。この点は改善点です。しかしながら、シットインの場であるからこそ、実際に聞こえてくる話題と記述がリンクする瞬間もあり、「まさにここの」問題である、ここに座っている私たちが当事者である、そういう意識を感じることができました。

 

結局、読書会中にも声を上げる場面は何度もあり、午前中・午後の2回にわたって法務委員会室に向かって声を上げるための移動もあったため、何度も中断がありました。しかしながら、中断があっても、また不十分な体制であっても、「今ここにある問題」を扱っているということで、参加者は深いところでこの問題に対する意識をつけられたと感じた人が多かったようです。

 

実は、デモの類に参加することが初めてだという人が大半だったのも特徴です。デモの場には危険が伴います。読書会の形で、カジュアルで軽い雰囲気を出しつつ、そのような場所に呼んでしまうことの無責任さは非常に問題であるので、今回の反省としては、安全面でのアナウンスをもう少し徹底すべきだったと考えています。しかしながら、それと同時に、デモに初めて参加し、初めて声を上げ、また読書会やスピーチを通じてまさに今ここで起こっている問題とは何かがわかった、という声も多く聞かれました。

 

③「シットイン」という場について

最後に、この実践を通じて、主催者が考えた「シットイン」という場の可能性について論じておきます。

 

シットインとは、そもそも公共空間の占有です。今回の活動であれば、点字ブロックを塞いだり、通路を塞いだりすることはせずに、歩道を占拠し、座り込むこと。これに意味があるということが、シットインの精神であると考えます。

 

もちろん、声を上げる必要のある時は上げる。手伝うときは手伝う。しかし、長丁場になる審議の間、市民が外から答弁を監視するためには、安全かつ楽に継続できることが必要です。そのために座り込む。

座り込んでそこに時間を使うことだけでも、連帯の意思表明になります。入管問題に絶対的な関心を持ち、共に戦おうとする意思があるということを、座り込む身体が語るのです。

 

シットインは、「歩くための場所」と思っていた空間が、実際は市民の空間であることを私たちに気づかせてくれます。そこは、歩くためだけではなく、座ったり、ご飯を食べたり、仕事をしたり、オンライン授業を受けたり、人と話したりする場なのです。そうした「場」の可能性が、ただ「歩くため」だけに縮減されていたことを気づかせてくれるのです。

これは、私たちが空間に対して振るわれる権力や暴力に対して、センシティブになることも要求します。今ここに座っていられるということ、それでもすぐそばに警察官がいたり、まさに入管暴力を容認しようとする国家権力がいたりするということ。この境界線はなんなのか。今ここに座っている我々が安全だとして、それはなぜなのか。どうして入管に収容される人々は暴力を受けるのか。どうしてその人々は都市空間から排除されるのか。あるいは、我々もこれから、都市空間から排除されてしまうのか。こうした問いを突きつけるのが、シットインというアクションであると考えます。

 

シットインは路上生活でもあります。何しろ、審議の間の4時間だけであろうと、そこで過ごすということは、生の一部をその空間での時間にするということです。シットインに継続的に参加すれば、トータルは何時間になるでしょう。そこで本を読み、仕事をし、ご飯を食べる、これは生活です。

 

本来であれば、市民の空間であり、生活の空間である場所。この場所への意識を高めることは、そのまま権力や暴力に対する感受性を高めることになると思うのです。そして、その意識の高め方とは、空間を「自由」に、創造的に使用することからも始まります。

私たちの道路脇読書会を評価するとすれば、そのような実践の一つだということができるでしょうか。

 

幸い、読書会参加者や周囲の方、他団体の方などからもお声がけをいただき、取組を評価いただくことができました。何よりも、思いつきで始めた読書会ではありましたが、これを機に『ルポ入管』を購入し読み始めたという参加者もいるようですし、主催者自身、新たに学ぶ点が非常に多くありました。

 

最後に、今後もこのような活動は続きますし、心から連帯の意を表明します。ご支援・応援のほどよろしくお願いいたします。

6月5日に行われる国会前大集会にも、メンバーが参加いたします。

 

<課題本>

ルポ入管ー絶望の外国人収容施設(ちくま新書

著者 平野雄吾